今月のBOOK

(2004年 7月号)



  『家族を「する」家』
  藤原 智美
  ISBN4−8334−9060−9
  プレジデント社  本体1,500円
  2000年7月


ここ数ヶ月で、未成年者、それも10代前半のまだ児童期ともいえる年齢の子供達による犯罪がたてつづけに起こった。
思春期の子供を持つ親として、これは決して他人事ではない。こういう事件が、いつ自分の身近で起こっても不思議ではないのだ。
「なぜ、殺さなければならなかったのか?」「親はどうしていたのか?」さまざまな疑問がわきおこってくるが、
どこにもはっきりした答えらしきものは見当たらない。
マスコミが今の子供たちの「心の闇」といってセンセーショナルに騒ぎ立てるのを観ながら、
こういうことを予知しているような本を以前に読んだことがあるなあと思って調べてみた。
すると、本棚からこの本が出てきた。

初版は2000年、今から4年前だが、当時初めて読んだときは、あまりピンとこなかったのだと思う。
けれど、今改めて読み返してみると、身につまされると言うか「その通り」と思う部分が驚くほどたくさんあった。
それだけ、この数年間で世の中は急激に変化し、都市部、地方にかかわらず変化の流れは悪いほうに向かっているように思える。

第3章の「子供の家」の中では、携帯電話やインターネットの弊害について記されている。
−「電子情報の壁」が同じ屋根の下にいる家族間にも「見えない壁」として張り巡らされ、その壁は日々厚くなっていく。−
家族は、一人一人が自分専用の携帯やPCを持って、外の世界と自由にメールやチャットを楽しんでいる。
一方で、家族間の意思疎通やコミュニケーションはなおざりにされ、いつも間にか、夫婦なのに、親子なのに相手の考えていることが何もわからないという状態に陥っていく。
そうして、ある日何かのきっかけで芽生えた「不信の芽」はどんどん大きくなり、やがては家族崩壊につながっていく・・。(これは、本文にはありませんが、決して他人事で言っているのではありません))
携帯やPCのせいで、家族の誰かが疎外感を持つということがないよう、我家では携帯・PCの使用は、必ず家族がいる部屋で行うことをルールにしている。
プライバシーという面では、一見厳しいルールのように感じるが、つまらぬ誤解を生じさせないための安全策であり、
家族間の空気を風通しよくしておくためである。(それでも、秘密を持ちたい時には、持つでしょうから・・。)

ところで、ネット上では、いろんな方のサイトの掲示板を見せていただく機会があるわけだが、最近ものすごく気になることがある。
それは、既婚者の人たちが、当然夫婦間で話し合い、解決すべきと思えるような問題を
顔もしらないあかの他人に向かって、掲示板に書き込みしているものがとても多くなってきているということだ。
本来なら家族間にあるべきはずの「心のきずな」を、家族外の人間に強く求めようとしている、とさえ思える。
夫は妻以外の女性に、妻は夫以外の男性に、心の奥底をひろげて見せ、悩みを打ち明ける。
本当に不倫したいと思っている人たちは別として、そういう人たちは、決して自分の夫や妻を軽んじているわけではなく、むしろ夫婦としては理想的な姿で仲良くやっているのが一般的なのだ。。
文字にして書き表すと、とても不思議で奇妙な夫婦関係に見えるけど、現実にはこういう夫婦はいっぱいいると思う。
お互いに深く干渉しあわず、それぞれに自分の趣味を持ち、自分のライフスタイルを楽しむ友達のような夫婦。
でも、生きていればやはり悩みや不安はあるもので、それは決して自分のパートナーには打ち明けず、全く別の人間を心の拠り所としている。

それでは、そういう夫婦の間で育っていく子供たちはどうなるのか?
長崎の小学生殺人事件は、インターネットの掲示板の事が大きく取り上げられたけど、
子供の世界でも、子供たちはやっぱり親ではなく、親以外の人間に強くて堅い「心のきづな」を求めている。
その求め方はまるで秘密結社のようだ。裏切ったり、逃げたりしようとするものには、「血の制裁」をという極端な発想さへ生れてくるかもしれない危険性がある。
親達が、「子供たちのプライバシー」を尊重するあまり、子供部屋や、子供のPC,そして子供の心の中で何が起こっているのかということに無関心であり続けたつけが、今まわってきている・・・。
大人であるはずの親自身が、胸を張って「これはダメ!」と叱れない社会になっている。

第4章 「絆としての家」では、「食」のことに触れている。
この「食育」は、私も子育てしてきた中で、もっとも重要なことだと考えている。
カロリーや栄養計算をどうこう言っているのではない。そういうことも大切だけど、「家族で食卓を囲んで、同じものを食べる」というのが、とても大切なことだと思うのだ。
「同じ釜の飯を食う」・・・一見、当たり前のことのように思うが、今の時代、もう当たり前ではなくなっている。
父親は仕事の残業で、子供は塾通いで、夜の遅い時間でさえもすれちがいばかりで、結局一人、もしくは家族以外の人間と食事をすることになる。
また、別の極端な話もある。
とても、料理好きで料理の得意な母親だとする。彼女は決して手抜きすることなく、毎食手作りの食事と手作りのおやつを家族に提供する。
けれど、子供たちはたまにはファーストフードやコンビニのおやつも食べてみたいと思う。けれど、理想の家庭像を追求しつづける母親は、それを決して許さない。
広くて明るい吹き抜けのダイニングテーブルには、手の込んだ手作りの料理の数々が並び、夫や子供たちはそれを食べて「ママ、おいしいよ」と笑顔で言う。
夫や子供たちが、本当は何を好きで何を嫌いかは、彼女にとっては問題ではない。すべて自分の言うとおり、自分が作ったものを食べていればいい。
こういう母親している人、意外に多いかも・・。
(これも本文にはありません。私が気づいたことで・・・。)
市場には食材があふれ、どんなものでも簡単に手に入ってしまう。スーパーに並んだパック売りの牛肉や鶏肉を見ても、
普通は、ただの「食材」としか考えないだろう?
牛肉が、どうやって牛肉になるのか、鶏肉がどうやって鶏肉になるのか、誰もそれらの動物達が首を落とされて加工されていくところなんて想像しない。
もしかしたら、肉は工場で作られていると思っている子供もいるかもしれない。
大人もそこまで教える人はいないかもしれない。だから、食べ物を粗末にしても平気になる。
目の前のおいしそうな料理の裏側で、尊い「命の犠牲」があったのだということなど、誰も想像しないし、教えようともしない。

そういうわけで、「食」に関しても、我家は最低のルールを決めている。
食事の前は必ず「いただきます」(外食でも)と言って、食べ物に感謝の念を表し、一日に一回は家族が顔を合わせて食べる
ただ、それだけのことだが、意識してやるのとやらないのとでは、長い時間を経れば、必ず子供の成長に変化の差が出てくると思っている。
食事の間は、家族間でゆっくり話が出来る貴重な時間だ。
大人たちだけで話すのではなく、子供にも「今日はどうだった?」と聞いて、会話に参加させる。
「食育」は、体を育てるだけじゃなくて、精神的なものも育てていく大事な仕事だと、私は思っている。

今、我家では、ツバメが巣を作ってヒナをかえして子育てしているのだが、
動物の子育てのほうが、自然の摂理にかなって一番正しいように思う。
そこには、夫婦愛がどうだの、家族愛がどうだのって、むずかしい理屈はない。
自分のDNAを子孫に残すべく、強いオスはメスを見つけてつがいになり、巣を作って卵を産み育てる。
子供は、大きくなったら、巣を離れ、今度は自分ひとりで生きていく。その繰り返し。
オスもメスも自分の人生がどうのこうのいって、安定した生活で長生きしようなんて思っているのは、人間くらいかもしれない。(年金どうなるのって?)
「次の世代の子供を育てる」ことだけが究極の目的である動物の親達のほうが、ずっと偉いような気がする。

最近は出生率も極端に低くなっているとか。不妊に悩む女性も増えている。
子供は、自分の子供だけじゃない。次の世代の大切な宝物だ。
その大切な宝物の人生を複雑にしないためにも、お父さん、お母さん、もうちっと辛抱して
仮面夫婦だろうがなんだろうが、一生懸命「家族」するよう努力しようじゃないですか。
とりあえず、筆者の藤原氏の言う通り、夫婦を軸とした「家作り」を徹底させるため
夫婦同室を守って、LOVELOVEしませう!!。